法輪のBBS

人生のこと、社会のこと、仏教のこと、あなたのメッセージを伝えて皆さんで御一緒に考えましょう。初心者の方には、優しくお答えしますので遠慮せずに疑問を解消しましょう。継続的な法話の他、宗教哲学、法華経や日蓮聖人の教義に関する専門的な御質問、議論も歓迎する掲示板です。 

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法華の行者  投稿者:shamon  投稿日:2008年 7月 3日(木)00時10分27秒    編集済
  mada60さん 有り難うございました。

> 日蓮聖人様の教えを求めるのではなく、我が所属団体が最も大事なのである。正に本末転倒である。

第二、第三のmada60さんのような方々が次々と出て来られること、そしてやがて力を携えて組織的に活動し、本仏釈尊の弟子として、本当の法華経の、本当の日蓮聖人の教えを実践できる方を増やしていくことが出来るようになること、shamon心より期待して今後も微力ながら努力をして参りたいと思います。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

 

問題の背景に・・○○な思想。  投稿者:shamon  投稿日:2008年 7月 2日(水)23時26分58秒    編集済
  川蝉さん 有り難う御座いました。

今成師の父・師僧は、本多日生上人の高弟でした。今成師は、日蓮聖人の主義を貫いた強信の父に常に反発していたとも聞き及んでいますが、何れにしても今は日蓮宗の勧学職であり、また現在は日蓮宗改革を宣言して戦後も日蓮宗内に残留した”はず”の什門流(旧顕本法華宗)の会長をされています。

10年程前、実はある方の会において、現在まで今成師を何かと煽動されているグループの中心的な僧侶(○神研究所、○部教化センター関係者)で、日蓮宗の中において最近は大変御活躍の方と御一緒したことがあります。その時の会の席で、少し異様な光景を目にしたのが今でも忘れられません。

参加された信徒さんの一人(確か大学の講師の方だったと思います)が、「自己犠牲の精神を発揮して、私も少しでも社会のために貢献出来るよう菩薩行に努めて参りたいと考えています。」と自身の信仰心を謙虚に語られた所、その僧侶は「貴方、自己犠牲とはどういうことか分かって言っているのか!」と偉い剣幕で噛みつかれたのです。そして会合の後、「どうでしょうか。失礼ですが、一般の方が謙虚に菩薩行として信仰心を述べられているのに、僧侶としてあのような物言いの仕方は、少し考えて差し上げても良いと思うのですが。何か特別の理由でもあるのでしょうか?」と問い掛けたところ、今度は私に対しても喧嘩を売るような勢いで激しく反発してきたのです。

その時に感じ取ったのは、この人たちは戦後に見られるある特有の思想に執着する方達だな、正法の為、社会の為であるとか、或いは国家の為に、自己を犠牲にする等という精神は徹底的に否定しようとしている人達だなということでした。言うなれば、それは「アナーキズム」の強い匂いをプンプンと感じさせるものであって、即ち、それはそれまで皆が信じ追随していた日蓮聖人の主義を覆すことを意味するものであるわけです。「問題提起と議論」を武器として影響力を強めていこうとする、有る意味非常に優秀な方達のグループでありますので、そのような戦略の延長線に、「立正安国論」さえも封鎖しようとする議論が起こる「今」の日蓮宗があるということを正しく分析するならば、日蓮宗の碩学の諸師も今成師の件のみに対して「馬鹿を言うな」と反論したり或いは無視したりするのみでなく、組織的な対抗策を以て宗門の方向性を警戒しておかねば、今後大変なことになるでありましょうね。日蓮宗内の什門流(旧顕本法華宗)も、取り込まれて既にその存在を骨抜きにされてしまったようにも思います。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

 

(無題)  投稿者:mada60  投稿日:2008年 7月 2日(水)18時17分40秒
  確かに先生方の言われるとおり「日蓮本仏論」を唱える掲示板ばかりである。しかも、まともな対論はまず望めない。日蓮聖人様の教えを求めるのではなく、我が所属団体が最も大事なのである。正に本末転倒である。
どこから話すべきか、いつも考えている。お上人や諸兄から教わった事を一人でも多くの人に伝えて、本当の仏教の功徳を知っていただきたいと、そればかり考えている。
たとえば、彼等の「体験発表を聞くとよく解る。まるで、天理教などの体験発表と同じである。

あれが功徳ならば天理教で十分であり、日蓮も法華経も釈迦如来も要るまい。

日蓮本仏論を破折する近道として、私は「日興師と当時の信徒達への指導」を取り上げた。
仏の本懐が一品二半であり二乗作仏・久遠実成、とりわけその「随自意」である久遠実成釈迦如来を本師本仏と拝していた事は「原殿御返事」(正本は無いけれど写本が存在し正宗では真蹟扱いしている。)或は「佐渡国法華講衆御返事」(北山本門寺蔵)で証明できる。ちなみに前者は日興師42歳、後者は78歳作成だと思う。

色々言ってくるがごまかされる必要はない。
常に『それならなぜ、このような信徒に宛てた指導が残っているのか?』と自問して魔を打ち破る事にしている。(ここのこの「我慢」もshamon師伝授です。)
第二、第三のshamon師や川蝉師は無理でも、mada60程度なら五万と居る。いくら「アク禁」しても意味は無かろうに。
 

佐渡以降遺文にも有りますね  投稿者:川蝉  投稿日:2008年 7月 1日(火)13時24分19秒
  今成先生の
「佐渡より以降の御遺文には、不軽菩薩をもって『法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す』と言う理解を説いるものは無い。不軽菩薩は折伏逆化の修行者であると教示している明確な真蹟遺文を示してもらいたい。」

との見解に対しての反証として、


文永11年五月(於身延山)の「法華取要抄」

「一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ、逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る、例せば不軽品の如し我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり」
(平成新修日蓮聖人遺文集・348頁)


文永12年3月(於身延山)の「曽谷入道殿許御書」

「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」
(平成新修日蓮聖人遺文集・395頁)

も有りますね。

http://www.homyou.hello-work.jp/

 

川蝉さんブログへの投稿(転載)  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月30日(月)16時04分30秒    編集済
  日蓮宗勧学職の今成元昭師が、日蓮聖人には折伏の義は無いと主張し始めてから、早8年になろうとしています。今成師に対する反論は、本HPの仏教講座「摂折論について」でも取り上げていますが、今尚「○神」関係者の方々に後押しされて講習会等で次のように述べているそうです。

「佐渡より以降の御遺文には、不軽菩薩をもって『法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す』と言う理解を説いるものは無い。不軽菩薩は折伏逆化の修行者であると教示している明確な真蹟遺文を示してもらいたい。」

観心本尊抄には「今末法の初、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共にこれを失し、天地顛倒せり。迹化の四依は、隠れて現前せず、諸天はその国を棄ててこれを守護せず。この時地涌の菩薩、始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。『因謗堕悪必因得益』とはこれなり。」とあります。

「因謗堕悪必因得益(いんぼうだあくひついんとくやく)」とは、「法華文句記」から引用したもので、謗法の因によって悪に堕ちいる者も、必ず謗法の因によって利益を得ると言うことであり、不軽菩薩品に説かれたことです。即ち、法を壊る者を呵責し強いて説く→折伏、法を謗る逆縁の者を順縁へ→逆化ですね。

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妙荘厳王本事品 第二十七 その1  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月30日(月)12時05分54秒    編集済
  (要文)

時に浄蔵・浄眼の二子、其の母の所に到って、十指爪掌を合せて白して言さく、「願わくは母よ、雲雷音宿王華智仏の所(みもと)に往詣したまえ。我等また当に侍従して親近し供養し礼拝すべし。所以(ゆえ)は何(いか)ん、此の仏一切の天・人衆の中に於いて法華経を説きたもう。宜しく応(まさ)に聴受すべし。」 母、子に告げて言わく、「汝が父、外道を信受して深く婆羅門の法に著せり。汝等往いて父に白(もう)して与して共倶(とも)に去らしむべし。」浄蔵・浄眼、十指爪掌を合わせて母に白さく、「我等は是れ法王の子なり、而るに此の邪見の家に生まれたり。」 母、子に告げて言わく、「汝等当に汝が父を憂念して為に神変を現ずべし。若し見ることを得ば心必ず清浄ならんあるいは我等が仏所に往至することを聴(ゆる)されん。」

(現代語)

その時、浄蔵と浄眼の二人の子は母の所へ行って合掌し、「どうか母上、雲雷音宿王華智仏を参詣されて下さい。私達もお供しますので、お側に仕えて供養し礼拝致しましょう。何故なら、彼の仏が一切の天の神々と人々の中に於いて法華経を説かれるからです。どうかそれを一緒に聴聞しましょう。」と述べました。すると母は、子供達に次のように言いました。「あなた方の父上は、仏道以外のバラモン教の深く信じています。まず、あなた方は父上を説得して共に行かねばなりません。」浄蔵と浄眼は合掌して母に述べました。「私達は法王(仏)の子にも拘わらず、何故に邪な見解を信じる家に生まれたのでしょうか。」母は子に続けて告げました。「あなた方が父を哀れに思って本当に心配するならば、神通力を以って奇蹟を見せてお上げなさい。もし、それを見るならば父上の心は必ず清浄となって、私達が仏の所へ出かけるのを許されるでありましょう。」

(要義)

この品では、先の薬王菩薩品ならびに妙音菩薩品の流れから、妙荘厳王を救済した薬王・薬上と華徳菩薩の本事(過去世)が語られます。妻となり子となって、国王を仏道に導いた時の因縁が説かれる所です。仏の教えにより神通力を得ていた二人の王子は、母の言う通りに父の前に行って、口の中から水を吹き出したり、虚空に飛び上がったり、火の燃えている中に入ったりと、婆羅門が現じる所ではない奇蹟を見せます。議論よりも実際に神変を見せることによって驚き、「汝等が師は誰ぞ」と感服した父は、それでは一緒に仏様の所へ行って教えを聞こうという事になったのです。

この品の趣意は、世間から言えば国王は最高権力者でありますけれども、仏法からすればやはり真の悟りを得ていない迷いの人ですから、正しい信仰に導かればならない事を教えています。これは仏法の原則ですから、それが為に日本に仏教が来ては、聖徳太子を始め、桓武天皇、歴代の天皇が皆仏教を信仰せられて来たのです。戦前には日蓮門下に於いて、「天皇本尊」等と、その権威を褒めさえすれば良いという危うい思想を唱える者が多々ありましたが、もし天皇の意思のみで総てが治まるのならば、何も悉達太子は出家成道などせずして、そのまま迦毘羅城の王様であれば良かった話です。いくら主権者を敬うといっても、国王の命じる所は直ちに道である、正義であると言って、不法な事、道理に合わぬ事をやり出した時には、その国は必ず滅びることになります。したがって、如何なる最高権力者と雖も、役人にしろ教育者にしろ、そのような誤った考えの者が世の中に増えないように、正しき道、正しき教えに対しては常に従順である必要があるのです。そのような意味に於いても、この妙荘厳王品は良き教訓ともなりましょう。

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削除通知  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月29日(日)23時03分11秒    編集済
  「罵倒しているのはお前等だろうが!」は削除しました。時折、過ちを批判することと罵倒の違いが分からない創価学会や日蓮正宗の信者が乱入しますが、そのような指導をしている宗教団体であるが故に致し方がないのでしょう。仏に近づくことのない本当に罪の重い教えに思います。

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回答  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月25日(水)11時22分2秒    編集済
  法華経・日蓮聖人に関する掲示板をネットで検索すれば、出てくるのは創価学会と日蓮正宗による他者への罵詈雑言の嵐ばかりです。一般の方が宗教に興味を持ちだしたとしても、これでは誰も法華経や日蓮聖人の教えには近づこうとしないでしょう。その一方で、創価学会や日蓮正宗への批判を掲載しているような日蓮門下のサイトは皆無に近い状態です。これでは、日蓮聖人の教えは創価学会や日蓮正宗と同じと肯定しているようなものですね。

さて、ハンドル「富士川一郎」さんという方は、日蓮正宗には珍しく真摯な方のようだと聞きましたので、アッチョンブチケさんのリクエストに答えて、他掲示板で当方に寄せられた投稿に関して少々コメントを述べましょうね。

> まず初めに『釈尊の仏法が「過時の仏教」(所謂去年のカレンダー云々)である』ことの証明を、まず第一に御妙判をあげ、

> 観心本尊抄・送り状(中山在)に『所詮、在々処々に迹門を捨てよと書きて候事は、今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。設ひ天台・伝教の如く法のまゝありとも、今末法に至っては去年の暦の如し。』

> この御妙判にある「今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり。」は当山の二品(方便・寿量)勤行読誦化儀である、方便品を所破・所用の処に生きています。

上記は、「観心本尊抄・送り状」ではなく「観心本尊得意抄」(富木常忍宛、真跡なし、中山・日祐作ともされる)の一節ですが、この直ぐ前文に「観心本尊抄の未得等の文字に付いて迹門を読まじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候か。」とあるように、「迹門は無得道なれば読まず」と日蓮聖人の教えを誤解している人々に対して書かれたものです。

文中に「捨てよ」と述べられているのは、当時の真言宗の影響を受けた慈覚以降の叡山天台宗の法門であって、日蓮は法華経の迹門を「捨てよ」と言っているのではないと忠告しています。また、たとえ当初の天台大師・伝教大師の教えのままであったとしても、それはやはり像法時代に必要とされた迹門を中心とした法門であるので、「去年の暦の如し」と述べているものです。この文章は続けて、「何に況んや慈覚より己来、大小権実に迷ひて大謗法に同ずるをや。然る間像法の時の利益も之無し。増して末法に於てをや。」と、そのことを補足していますね。

以上、「観心本尊得意抄」は、釈尊の仏法が「過時の仏教」(去年の暦)であると、日蓮正宗や創価学会がデタラメを教えるために述べたものでは全くありませんね。また引用に「我等が読む所の迹門」とあるように、方便品を読むのは日蓮正宗のように方便品を所破(否定)するために読むのではありません。

> ちなみに明治期を過ぎるまでは、日蓮宗は天台宗から「天台亜流」と謂われていたそうですから、法義といい本尊行儀といい、資料を見る限りは変わりがないようです。

旧日蓮宗(一致派)の諸法実相を「体」とした迹門中心に傾倒した教義、所謂「天台づり」に対する批判については、このHPの「山崎問答(本迹勝劣問答抄)に見る一致派の主張」 http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/yamazaki%20mondo.htm を参考にされると良いでしょう。

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法華経とは  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月25日(水)00時53分56秒
  shamon師、みなさんありがとうございます。どうしても時間が取れなくて、残念です、
「上慢・不解・不信」は皆、十四誹謗の内ですが、地獄に堕ちるどころか仏に成るなりとあるので、理解できないと言う事でしょう。しかし、これは「法華経は不信の者すら・・・」と、あくまでも「法華経は」なのです。法華経とは本門、本門とは一品二半、一品二半と言えば「久遠実成」「久遠実成」と言えば「最為難信難解」、「難信難解』故に「随自意」
一方「十四誹謗」の不解・不信について言えば、
不解、不信にならないように相手の機根に合わせて説くのが「対機説法」「随他意」なのです。尚、聖人様は「本尊抄」(学会版249ページ)のなかで一品二半より外は「方便」であると述べています。「譬喩品の十四誹謗」も当然「寿量の序分」となるのです。
 

盲目  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月22日(日)08時52分19秒    編集済
  mada60さん

まあ、この辺で彼の件は一段落しましょう。他を中傷罵倒する根拠が、彼等が御遺文を正しく読めないことにあると明らかにされても、何時までも屁理屈を捏ねるのでは仕方がありませんね。しかし、釈尊の説いた法華経を「謗った、謗った! 地獄行きだ!」と言いながら、彼等自身が「釈迦も釈迦の説いた法華経も役に立たない、腐った食事」と謗っているのですから、日蓮正宗や創価学会等のカルトな宗教を信じ込まされた彼等は、本当にお気の毒な方々に思います。こともあろうに、創価学会は日蓮正宗の邪義を利用して日本最大の宗教団体となり、今や政権にまで関与しているのですから、日本人の宗教離れは益々深刻なものとなりましょう。

ところで先日も中国の天津を往復してきましたが、少し面白い話を。北京同様に天津も毎度酷いスモッグで視程が非常に悪い所です。到着して休息の合間に煙草を吸おうと思いましたが、何と新しくなった空港では設置されている喫煙所も現在は閉鎖されています。何故なのかと現地の中国人スタッフに尋ねると、「ハイ、北京オリンピックが終わるまで禁煙になりました。」 うーん、何か根本的な視点が可笑しな気がするけど・・。中国に限らず、盲目的な執着には気を付けたいですね。

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謗らない  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月20日(金)23時32分59秒    編集済
  お暇庵氏の見解と私の認識では、大分違う。
6月13日にお暇庵氏は「諫暁八幡抄」を「前代の仏は法華経謗法の者を治し給わず、宗祖の仏教が末法の衆生・謗法の者を治し、云々」と御妙判の解釈があった。この解釈は大変な『誤読』であると、おかしいと、「在世には法華経を謗る者が居なかったが故に謗法の者を治す必要が無かったのであり、「治せなかったのではない」と氏の主張を退けた。ところが氏はこの事への反論として、新たに、「五千の上慢の「不信の人」が居るではないか、この人達は謗法の者では無いのかと質問する。
「法蓮抄」の「彼の五千の上慢は聞きてさとらず不信の人なり」がその典拠であった。
が続く文章には「然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき、(中略)法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり」とあり、謗ぜざれば、即ち「謗法(法華経)」なければ不思議にて仏に成るなり」のご指南がある。
之に対し、氏は事もあろうに他宗高僧の意見など引いて「謗法があったという解釈は外れていませんよ」と主張する。そして「宗祖はこの見解に対して唱法華題目抄で法蓮抄とはまた違う見解をされている」と言う。これも大変な「誤読」だと思う。
「諫暁八幡抄」「法蓮抄」「唱法華題目抄」には「法華経謗法の者」はいないのである。
お暇庵氏の投稿を以下に引用する。「拝復」6月19日(木)17時より(文中(訳)は現訳である)

ともかく五千起去は各門流で色々な解釈がされているでしょうが、他宗に於いても以上のような解釈ですから、謗法という解釈は外れていませんよ。宗祖はこの見解に対して唱法華題目抄で(興尊写本・在家蔵)宗祖と天台大師釈を上げられて、法蓮抄とはまた、違う見解をされています。

(本文)
「又法華経の方便品に五千の上慢あり、略開三顕一を聞いて広開三顕一の時、仏の御力をもて座をたゝしめ給ふ。後に涅槃経並びに四依の辺にして今生に悟りを得せしめ給ふと、諸法無行経に、喜根菩薩、勝意比丘に向かって大乗の法門を強ひて説き、きかせ謗ぜさせしと、

(訳)又、法華経の方便品の中に五千人の増上慢の事が記されている。略開三顕一を聞いて広開三顕一の教えを説かれようとした際に仏はその御力を持ってその座から立って出て行くようにしむけた。のちに涅槃経や仏の滅後に仏に等しい菩薩らによって、今生に悟りを得させてもらうことができた。
そしてこの事とは反対の振る舞い、すなわち、諸法無行経と云う経の中には喜根菩薩が勝意比丘に向かって大乗の法門を強力に説き聞かせて、誹謗させ逆縁を起こさせたことが記されている。

(本文)
此の二つの相違をば天台大師会して云はく「如来は悲を以ての故に発遣し、喜根は慈を以ての故に強説す」文。

(訳)
この二つの相反することの違いについて天台大師は「釈迦如来は衆生の苦悩を除こうとして座をたたしめ、あとからゆっくり仏に成るようにしたが喜根菩薩の方は衆生に薬を与えてやろうとして、強力に大乗経を説き、逆に誹謗させてその縁により救済しようとされたものである」と解釈している。

(本文)
文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣きて、当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲しみ給ひて、座をたゝしめ給ひき。譬へば母の子に病あると知れども、当時の苦を悲しみて左右なく灸を加へざるが如し。喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず、後の楽を思ひて強ひて之を説き聞かしむ。譬へば父は慈の故に子に病あるを見て、当時の苦をかへりみず、後を思ふ故に灸を加ふるが如し。

(訳)
この文の意味は仏はあとのことはともかくとして、増上慢の人々に法華経を聞かせると、これを誹謗して地獄に落ち苦しみにあうことを悲しみ、わざと座を立ち退かせたのである。たとえば母が子の病気を知っていても、当座の苦痛を考え、簡単にお灸をすえないでいるようなものである。一方、喜根菩薩は反対に当座の苦痛はかえりみないで後々の事を考え、強力に大乗経を説かれたのである。たとえば子の病気を考えその場の苦痛よりも後の事を思って、お灸をすえるようなものである。

以上簡単に訳してみたがいずれにしても「当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあうべきを悲しみ給いて、座をたたしめ給ひき。」とあるように「五千の上慢の人々」は釈迦如来のお力を以って「法を謗らず」にすんだことがこの唱法華題目抄でも、知る事が出来る。勿論「法蓮抄」の「法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり」の御妙判も、「謗法」は断じて無いと説かれている。以上の文証を理由に氏の「謗法と云う解釈は外れていませんよ」を破しておく。
 

(無題)  投稿者:アッチョンブリケ  投稿日:2008年 6月19日(木)13時57分2秒    編集済
  mada60さん はじめまして。

突然のご指名賜りました、アッチョンブリケです(汗;汗;)。shamonさん、お世話様です。ロム専で勉強させてもらってます。下記投稿「諸宗法論館」に転載させてもらいました。議論するには、たわいも無い方々のようですね。
 

その3  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月17日(火)02時31分59秒    編集済
  アッチョンブリケさん、「諸宗法論館」への投稿、ご苦労さんです。今夜は遅くなってしまい、如説修行師のお時間に遅れてしまいました。
さて、まだ「釈迦仏は去年の暦」の文証が出てきませんね。あんなのは違いますものね。

「お暇庵氏」が「切り文しないでくださいね。」って言っておられるのが「びっくり、すましたね」たぶん「五千起去(ごせんきこ)」がおわかりになっていないのでしょうね。

彼の切り文はこうです。6月16日(月)「びっくり、すました。」から
アチャーさん、本当の坊さんですか?法華経には、五千の上慢がありますよ。(中略)
宗祖は法蓮抄(建治元年四月、与・曽谷教信、真筆断存)で「彼の五千の上慢は聞きてさとらず、不信の人なり」法華経の会座において上慢の五千人が退座した。この四衆の方々を「不信」とされています。不信は大乗仏教では謗法ではないですか。


とございます。「法蓮抄」(学会版1046−1047ページ)では少し長めに引用してみます。

「文殊の如くならざれども一字一句をも之を聞きし人仏にならざるはなし、彼の五千の上慢は聞きてさとらず不信の人なり、然れども謗ぜざりしかば三月を経て仏になりにき「若しは信じ若しは信ぜざれば即ち不動国に生ぜん」と涅槃経に説かるるは此の人の事なり、法華経は不信の者すら謗ぜざれば聞きつるが不思議にて仏になるなり、」

切り文の恐ろしい典型でしょうね。
これでも彼等は自分達の「誤読」を認めませんでしょうね。何といっていいのか。
それこそ「びっくり!」です。
 

増上慢  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月16日(月)21時42分55秒    編集済
  ちょっと副業の仕事場から・・。

「お客様、大変申し訳ありませんが、電気機器類のスイッチは、飛行機をお降りになってから入れて下さりますようお願い致します。」

降機の際に、携帯電話をONにしてメールを確認する、或いはメールを始める乗客に毎度繰り返されるCA(キャビンアテンダント)からの注意です。「あぁ、ご免なさい。」と電源をOFFにするお客さんは極少数で、殆どの方が人前で注意されたことを「恥を掻かされた」と感じて横柄な態度となります。そして大抵の方は、電源はOFFにせずに、そのまま携帯を仕舞ってしまいます。飛行機内に限らず、最近は社会の至る所で似たような光景を目にしますね。

操縦席では、不可抗力であっても基準値を逸脱した操縦状態やミス操作があると、それを指摘するコールが互いに行われます。今は殆ど居なくなりましたが、かって私が副操縦士時代に「うるせえな、分かってるんだよ。」という態度を取る機長が、四人に一人位は居たでしょうかね。そのようなフライトであると、操縦席内の安全上のパホーマンスは急激に低下します。勿論、今は機長である私は「サンキュー、有り難うね。」と最上のチームワークに心掛けていますよ。「コ・パイさんは女房役だからね。貴方、私がいなければ何にも出来ないでしょって位で家庭円満、操縦席内もベストコンディションだから。」と新人の副操縦士には何時も話をしています。勿論、大事な時には「さすが、お父さん」ってな、機長でなければなりませんけれども(笑)。航空機は高速度で飛行していますから、疑問が生じれば、互いにスタンダードな解釈を即座に検討しあって次々と問題を解消させていきます。パイロットにミッション完遂の信念は必要ですが、執着は禁物です。

仏教の教義においても、誤りを指摘された時の態度で、その人間の根性が明らかに現れます。まともな議論が出来ない、何のために仏教を学んでいるのか分かっていない人たちが意外と多いものです。前世の因業、今生の因業と色々と障りがあるのでしょう。過ちを改める潔(いさぎよ)さは、昔は日本人の美徳の一つとされてきましたが・・・。(ただケチを付けてやろうとするのは、根性の拗けた者のすることで論外ですよ。)

話は変わりますが、一般の方には少々難しい内容かも知れません。当ホームページの仏教講座、小論に「山崎問答(本迹勝劣問答抄)に見る一致派の主張」をUPしました。七日間の日経上人との法談の後、一致派の日浄上人以下の人々が帰伏して師弟の間柄になったのは言うまでもありません。日蓮門下が皆同じように、日蓮聖人の教えを正しく把握できるための参考となれば良いと思っています。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

 

諫暁八幡抄  投稿者:shamon  投稿日:2008年 6月16日(月)10時07分47秒    編集済
  「釈迦を本仏とする事は、去年のカレンダーを用い、一週間前の腐った食事をしているようなもので何の意味もないどころか大変な弊害がある。」

さて、上記の日蓮正宗の教えを正当化する文証は一向に出てこないようですね。創価学会共々、本当に噸でもない罰当たりのことを彼の宗派は信徒に教え続けています。

「只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり。」(撰時抄)

日蓮聖人は、地涌の菩薩の自覚を得て、釈迦如来の直弟子、釈迦如来の御使いとして身命を惜しまず法華経の弘通に尽力されました。上記は、我が身を釈迦如来の働きとして、即ち究極的には我が身を釈迦如来の垂迹とすることが大事の法門であると説かれたものです。

日蓮聖人が「諫暁八幡抄」に涅槃経の「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり等云云。日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。」を引用されたのは、釈迦如来が娑婆世界の一切衆生の苦を自らの苦とするが如く、釈迦如来の弟子であるならば日蓮は、日本国の一切衆生の苦を自らの苦とせねばならぬと述べられたものです。けっして、日蓮正宗が教えるように「釈迦如来は役に立たない、日蓮大聖人こそが本物の如来だ」というデタラメな意味ではありません。

そもそも「諫暁八幡抄」は題名にあるように、法華経守護を誓った日本の氏神・八幡大菩薩に、釈迦如来の御使いとして、その役目を果たすように諫暁されたものです。「諫暁八幡抄」を読み進むならば、次のようなことが書かれていますね。

「三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり。日本国の人は八幡大菩薩の子なり。今日本国の一切衆生が八幡を崇め奉って、釈迦仏を捨ててしまっていることは、影を敬ってその本体を侮ることであり、子に向ってその親を罵るが如きことである。八幡大菩薩の本地は釈迦如来であって、その釈迦如来が垂迹して日本国に生れたのが八幡大菩薩なのである。」

「今の日本国は法華経に背き釈迦仏を捨つる故に、後生は必ず無間大城(地獄)に堕ちん事はさておきぬ。今生にも必ず大難に値うべし。」(一谷入道御書)

そして、「教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや。天台云く、すなわちこれ形を十界に垂れて種々の像等と云云。天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名なり。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。 」と、ここで日本国に出でる聖人とは、八幡大菩薩のみならず日蓮聖人御自身をも釈迦如来の垂迹である菩薩として示唆しています。したがって、「諫暁八幡抄」によるならば、垂迹である日蓮聖人を崇め奉って、その親であり本体である釈迦如来を捨てることは、堕地獄の謗法となることは明確ですね。

さて、「仏は法華経謗法の者を治し給はず、在世には無きゆへに。」とあるのは、釈尊在世のインドには法華経を謗る者が無かったが故に謗法の者を治す必要もなく八年しか教えは説かれなかったが、今の日本は「釈迦も、釈迦の説いた法華経も去年の暦と同じで弊害である。」と罵る謗法の者が大勢いるのであるから、法華経はその真価を発揮して未来永劫に輝きを増すのであると述べられて、弟子達を励まされたものです。けっして、日蓮の仏法の方が釈迦の仏法に勝るから、日蓮こそが本仏であると述べたものではありません。

創価学会の池田大作は、日蓮正宗が宗教の名の下に人々をいとも簡単に騙すことが出来、そして信徒が他門下への中傷に熱狂することに目を付けて、今の組織にまで拡大することを得たのですね。

http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/

 

四無量心  投稿者:ぶんるあん  投稿日:2008年 6月16日(月)03時57分26秒
  出典:ウィキぺディア(フリー百科事典)

 四無量心(しむりょうしん)とは、仏や菩薩が衆生に対して憐(あわ)れむ、慈・悲・喜・捨(じひきしゃ)の四つの心のことである。四梵行ともいう。

 無量とは、仏や菩薩の慈悲心やその境涯が無量であるということではなく、無量の衆生を所対として無量の福果を得るとされることから名つ゛けられた。仏や菩薩は、瞋(しん、怒り)や貪(むさぼ)りが無く、あるがままを喜んで受ける心を持つ。それら無瞋・無貧・喜受を柱・中心として無量の衆生に対して起こす心をいう。

1.慈無量心
  無瞋を体として、衆生に楽を与えんとする無量心。はじめは自己より受けるもの(楽な
  ど)を親しい者に及ぼし、拡大して無量無数の一切の衆生に及ぼすという。
2.悲無量心
  無瞋を体として、衆生の苦を抜かんとする無量心。はじめは親しき者の苦を度脱せしめ
  んとして、漸次に拡大して他に及ぼす。
3.喜無量心
  喜受を体として、衆生を離苦得楽せしめて喜悦させ、自らも喜悦せんとする無量心。は
  じめは親しき者より、漸次に拡大して他に及ぼす。
4.捨無量心
  無貪を体として、衆生の怨・親を分けず、平等に見て、執着心を捨てんとする無量心。
  はじめは自己に何ら関係のない者に対して起こし、漸次に拡大して怨者・親者に及ぼ
  す。
 

その2  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月16日(月)03時37分57秒
  諫暁八幡抄から「仏は法華経謗法のものを治(じ)し給わず在世には無きゆえに。」は味読すべき文証です。前代の仏は法華経謗法の者を治し給わず、宗祖の仏教が末法の衆生・謗法
のものを治し、その日本の仏教が西に帰るのですから、教主たるや何をかいわんやです。

と云うご投稿を見た。
直ちには何を言っておられるのか解らなかったが「宗祖の仏教」が末法の衆生・謗法の者を治し」とあるから、ひょっとして「釈迦牟尼仏は法華経謗法の者を救済できなかった」などと誤読してしまった上でのコメントではなかろうか?と気付いた。

そもそも、この御文章は「仏は法華経謗法の者を治し給わず、在世にはなきゆえに。末法には一乗の強敵(ごうてき)充満すべし。不軽菩薩の利益これなり。各々我が弟子はげませ給えはげませ給え。」(学会版589ページ)
という御文章なのであり、
「在世には法華経謗法の者はいなかったから、「救済」の必要はなかったけれど末法には必ず一乗法華経の強敵がいたるところに満ち溢れるであろう。この時にこそ不軽菩薩の折伏逆化の利益が得られるのである。末法の弘通は極めて困難であることが知られているが不惜身命の弘通に励みなさい。(電子事典参照)と。

「前代の仏」との発想はどこから来るのであろうか。

仏の「随自意」(仏の本意・本懐)とは、「最為難信難解」と言われる「久遠実成釈迦如来」ではないのか?「最為難信難解』か。やっぱり!。
 

切り文の危険性  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月15日(日)20時18分11秒
  常々、この掲示板でもお上人から「切文」では「文意を損なう危険性があることに留意する事」が教えられる。
「諫暁八幡抄」に日蓮聖人様の「如来の自覚」が示されていると云う人がいる。以下に示す

 諫暁八幡抄(弘安三年、十二月、真蹟断片)(学会版587ページ)
涅槃経に曰く「一切衆生異(い)の苦を受くるは悉く是如来一人(いちにん)の苦なり」等云々。日蓮曰く、一切衆生の同苦は悉く是日蓮一人の苦と申すべし。」
これを読んで宗祖の御自覚が如来ではないと言う人もおかしいですね。法華経の如来と宗祖、全く同義に並べて有ります。

とある。驚きである。出だしの「涅槃経・・・」のすぐ前の文言は「いかでか身命(しんみょう)をすててよばわらざるべき。涅槃経に曰く・・・・」なのである。

多くの人々が「正法、正師」を知らない為に地獄に堕ちる者は大地微塵(だいちみじん)よりも多い。これは皆三大師の科(とが)である事を日蓮は知っている。今生の身命を惜しんで黙って見ていられようか、今こそ身命を捨てて法華経の弘通に勤めなければならない。
師の釈迦牟尼仏も涅槃経第三十八に「一切衆生の苦は如来一人の苦である」と大慈悲を説かれている。弟子である自分も同じ心意気で頑張ろう」と読みました。
稚拙極まりない読みでは有る。が

いずれにしても「如来」とは「生死をはなれている」のでしょう。
「身命をすてて・・・」の文言は「如来の自覚」などがない証拠でしょう。
 

御書の提示  投稿者:mada60  投稿日:2008年 6月14日(土)21時06分8秒
  「今でも未だ釈迦を本仏とすることは、去年の暦を用い、何の意味のないどころか大変な弊害がある」などと云う人がいることに驚かされる。
「不特定多数の見る掲示板でそんな嘘を言うものでは有りません」とたしなめる人がいる。しかし彼は「私のどこが嘘つきなのか証明してもらいましょうか?」と逆に噛み付く始末である。
「あくまでも御書の提示を執拗に催促すべきであると私も思う。
彼はきっと真蹟御書を必死で探す事になろう。この事で今まで信じ込まされていた事が事実ではなかった事にお気づきになる事でしょう。

日蓮聖人様が「悪魔の眷属」についてご指南されている。
「唱法華題目抄」(日興写本・真蹟扱い)より、
「謗法の邪師の僧来て法華経は末代の機に叶い難き由を示す、故に施主もその説を実と信じて有る間、訪るる過去の父母夫婦兄弟等は弥(いよいよ)地獄の苦を増し孝子は不孝謗法の者となり聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる。」と。
聖人様は『地獄の苦』と短く述べておられますが筆舌に尽くし難き苦しみでしょうね。間違っても「末法に釈迦如来、法華経は役立たず」などと云う僧俗を絶対に信じないことですね。日蓮聖人様の有り難いご忠告ですから。
 

因縁生起  投稿者:ぶんるあん  投稿日:2008年 6月13日(金)13時00分40秒
   物事には偶然は存在せず、全ての事象は、縁起して成り立っている。

『自説経』

「これあるに縁ってかれあり。これ生ずるに縁ってかれ生ず。これなきに縁ってかれなし。
これ滅するに縁ってかれ滅す。」

 仏教の根本理念「縁起」

 そうですね。この掲示板は、私の人生に大変役に立っています。
皆さんの役に立てるような投稿を心がけます。
 

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